店主、名古屋薫が、お店に関係あることや、お店に関係ないこととか、
いろいろ書いたりするかもです
舛添さんなき後、と書くのはあまりにも恣意的でしょうか(笑)。でも、そのポッカリ空いた都知事というポストに入ろうと意欲を燃やしている人は、いないようですよねぇ。なんかね、学級委員が気に入らなくてみんなで辞めさせたけど、次の学級委員を決めようとしたら誰も手を上げないみたいな、だったら辞めさせるなよ、とそんな感じ。結局、世論に迎合した? それじゃぁ「ポピュリズム」じゃねぇかとか、いろいろ考えるわけでございます。
辞めちゃったら責任を追及できないこととか、石原や猪瀬だってファーストクラスを使っていたこととか、段取りを仕切っていた取り巻きがいたはずだとか、今さらになって言われております。もう、あとの祭りでございます。辞めることが決定したとたん、舛添さんも開き直って口を閉ざしてしまいました。
思い返せば、石原慎太郎があまり叩かれなかったのは、文筆家だからという理由も有ったのでしょうか。出版社は作家の過去の蓄積で食べさせて貰っているようなものですからね。怒らせて「作品を全部引き揚げる」とか言われるのを危惧すること、あるかもしれません。舛添問題も、もし週刊文春が記事にしなかったら、全く騒がれてなかったかも。としたら、雑誌の記事ごときに国民だけでなく政治家までもが振り回されてしまうというのも、脆弱すぎませんかねぇ?
新聞や雑誌は、必ずしも世情を正確に表しているわけではございません。世の中には情報が溢れかえっております。その中から、どの情報をピックアップして紙(誌)面に載せるかというのは、完全に編集部の恣意。そして時には、恣意を通り越して「意図」でも有ったりします。時々、抜群のタイミングで芸能人のスキャンダルが発覚したりしますよね。新聞や雑誌も売らなければなりませんから、その紙(誌)面作りには、必ず意図や戦略がございます。
今や情報社会で、多くの人がことさら情報を欲しがります。でも、本当の情報の活用は、「拾う」ことではなく、「比較」し「捨てる」ことに意味がございます。多くの人が、情報を「拾う」といった段階だけでストップしている。これでは、情報に振り回されてしまうのでございます。
ある情報をゲットしたら、他の人、他の場所ではどうかを考える。過去はどうなっているかを考える。そういった「比較」によって、その情報が「突出」なのか「ありふれたもの」なのかが見えてくるのでございます。「突出」ならば、さらにその突出に意味があるかどうかを考える。それには、「観察」が必要。その結果、意味の無い情報を「捨てて」いって大切な情報だけ残すという結果に至るのでございます。